ノルマンディー上陸から2ヶ月半後、パリ解放の3日前に終わった «  史上最悪の激戦 » ファレーズ・ポケット = モントルメル記念館/エマニュエル・オルティズ展=

歴史に残る194466

 

   1939年に勃発した第二次世界大戦下、ナチス・ドイツは独裁者アドルフ・ヒットラーに率いられ、1940年にはフランスに侵入した。戦力を失ったフランス政府はパリを無防備都市として占領され、ペタン元帥は降伏してしまう。

   1941年には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリス首相のチャーチルが大西洋憲章を調印、のちに26か国が参加する連合国軍の用意を始め、フランスのド・ゴールがイギリスに亡命し、自由フランス軍を結成。BBCラジオで暗号を放送させながら、対独交戦を誘導していた。

 

   アメリカの陸軍大将アイゼンハワーが連合国遠征軍最高司令官を。そしてイギリスのモントゴメリー大将が連合軍の地上戦力指揮官という重責を担い、ドイツからフランスを解放し、平和を取り戻す計画が1943年から始まった。

 

   そして勝利を導いた奇襲作戦が、《史上最大の作戦 The Longest Day (1962) 》《プライベート・ライアンSaving Private Ryan(1998) 》などに映画化された、歴史に残る194466日のオーバーロード作戦、通称 »ノルマンディー上陸作戦 »だった。

 

   フランスに侵入したヒトラーは、最大30万人ともいわれるB軍集団を率いた»砂漠の狼 »、ロンメル陸軍元帥にフランス北部を防御するよう命じた。連合軍は、ドーバー海峡に面したノルマンディー地方の沿岸へ上陸する作戦を練りつつも、敵を欺く作戦を繰り返した為、ドイツは、連合軍の上陸はベルギー国境に近いカレーからにちがいない、と固く信じていた。イギリスのBBCで放送された、ヴェルレーヌの《秋の日の ヴァイオリンの ため息の(上田敏訳)》が、《近々、作戦実行》を意味する暗号として放送されたが、この暗号を確認しながらも、ドイツ軍は「この悪天候では、上陸はないだろう」と信じていたという。 

 

   嵐が若干弱まった満月の日6月6日0時過ぎ、ノルマンディー地方からドーバー海峡へつき出るコタンタン半島先端にある大きな港町、シェルブールに続く主要道路上に位置するサント・メール・エグリーズ村に向けて、811C47機が飛行し、アメリカ軍エアボーン(82空挺師団、第101空挺師団)による14千人のパラシュート隊が舞いおりてきた。

 

   ついに、賽は投げられたのだ。

 

   ノルマンディー地方の海岸はサント・メール・エグリーズ村付近から東へ、ユタ、オマハ、ゴールド、ジュノ、スォード・ビーチと名ずけられ、約5000の軍艦や上陸用ボートが海岸を目指した。朝8時頃にはアメリカ軍(ユタとオマハ・ビーチ)やイギリス軍が水陸両用で上陸( 一部はイギリス軍とカナダ軍の空襲)が、約80キロにわたる海岸で一斉に炸裂した。

 

   合計15万人を超える第一次上陸を実行した連合軍だったが、ドイツの反撃、悪天候による船艇の沈没、オック岬の30メートルの岸壁からの銃撃戦、上陸前に負傷した為力尽きて溺死したりしたもの、空挺降下に失敗したものを含め、この日だけで約1万人を失った。

 

   アメリカ、イギリス、自由ヨーロッパ、自由フランスの連合軍は2万台の車両も上陸させ、2000機以上の爆撃機とともに、当時駐在していたドイツB軍集団と戦い続けた。内陸の村から村、少しづつフランスを奪い返していったが、その道のりは、長く、血塗られた歴史となった。

 

   66日に解放された場所は、パラシュート隊が降りたサント・メール・エグリーズ村と、カン近郊のランヴィル村だった。この地方の主要都市であるバイユーの町は7日、カンの街は9日に。・・・だが、イギリスからノルマンディー地方を横断するパイプラインを引くプルート作戦の要とも言える、コタンタン半島先端の港町、シェルブールは6月末に、モン・サン・ミッシェルに近いブレターニュ地方への交差点にあたるアヴランシュの街が解放されたのは7月末になった。

 

 

ファレーズ・ポケット

 

   アメリカ軍(第一軍)はコブラ作戦の成功によってアヴランシュの街を解放した後、ブレターニュ地方へ駒を進めていた。そこへヒトラーがフォン・グルーゲ元帥にリュティヒ作戦を命じた。ドイツはコタンタン半島の付け根、アヴランシュに逆襲して港を確保し、アメリカ軍を南北に切り離す目論見だった。

 

   クルーゲ元帥は、この作戦は勝ち目がなく、むしろセーヌ川まで撤退をする方が得策だと意見したが、ヒトラーは84日、再度命令を出した。一方、連合軍はこの作戦を通知する暗号の解読して事前に情報を得ていたため、アメリカおよびイギリス軍は、アヴランシュ手前のモルタン付近で効果的な航空攻撃を展開できた。だが歩兵を中心にアメリカ軍、ドイツ軍とも多数の死者を出し、この激戦は813日に終着した。

 

   この頃、カナダ軍、イギリス軍はトータライズ作戦とトラクタブル作戦で、第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントに大打撃を与えながら、カンの街からファレーズの町に南下してきた。パットン将軍自らが率いるアメリカ軍はファレーズより南にあるシャンボワ村へ移動、そこへトルン村を解放したカナダ軍、マチェク隊長率いるポーランド軍第1機甲師団、ルクレール将軍率いる自由フランス軍も集まって、8月19日、包囲戦”ファレーズ・ポケット”が用意された。

 

   この南北50キロx東西20キロほどの地域に追い込められたドイツ兵10万人に向かって、シャンボワ村から262高地(オルメル山)を固めた2000人のポーランド兵は死に物狂いで抵抗するドイツ兵に砲撃を浴びせた。このオルメル山の脇、サン・ランベール・シュル・ディーヴ村とシャンボア村の間はドイツ兵が逃げていった《死の廊下》。世界の平和へたどり着く前に、通らなければならなかった細い道では、今でも戦争の遺物が時折見つかるそうだ。

 

   8月22日の記録では、命を失った約1万2000体と、ドイツ軍の200機の戦車、1000の大砲、130台のハーフトラック(タイヤとキャタピラの戦車)、5000台の車体が破壊、1万頭の軍馬と馬車2000台が滅茶苦茶に混じっていた。アイゼンハワー司令官は「死体や体の一部分を踏まない道は100メートルと続かなかった」と、その地獄図を描写した。

 

   戦地一帯は、兵士や家畜の死骸が悪臭を放ちながら腐敗し、ハエが大量発生。地下水さえも汚染されたそうだ。住民はタバコを絶えず吸いながらの生活を強いられ、子供にもタバコの吸い殻を与えて、悪臭をなんとか紛らわせなければ、食事ができなかった、との地元の人の記憶がある。

 

   連合軍は、弱くなったドイツ軍を追いはらいながら、セーヌ川方面に指揮を取り、ファレーズ・ポケットから3日後の825日にパリを解放。事実上の《勝利》を決めた。

 

  結果、ノルマンディー地方で戦った連合軍は200万人を超え、うち37千人が死亡、負傷者は16万人以上に。ドイツ側は、20万人が捕虜となり、負傷者は17万人ほど、そして死亡または行方不明者は8万人・・・と推定されている。そして、巻き添えになって死亡した市民は約2万人から5万人と推定されているそうだ。

※ データはモントルメル記念館、10/05/2014のフランス3 地方版などに掲載されているものです。

 

262高地に建設されたモントルメル記念館

 

   ディーヴ川が流れる谷と、丘が重なる広々としたファレーズ・ポケットを見下す262高地に、終戦20周年を記念して建てられた追悼モニュメントがある。《我々の自由と、あなたがたの自由のためにpour notre liberté et la votre》と刻まれた壁には、この高地から戦ったポーランド第一装甲師団と一緒に戦った、フランスの第二機甲師団、カナダ第四装甲師団、アメリカ第90軍団の協力を象徴する、4つの鉄の槍が組み合わさったオブジェが飾られている。傍には、《将軍マチェク》というニックネームが付けられたポーランド軍が使った戦車、シャーマンM4A1と、 フランスの第二機甲師団が使っていた偵察用防弾車M8グレイハウンドが展示されている。

 

  その丘の下には、頑丈な防御陣地、ブンカーがあったが、これを利用して1994年にモントルメル記念館(Memorial de Montormel) が建設された。
   中に入るとファレーズ・ポケット地域で見つかった遺品と軍隊、軍人の紹介コーナー、そして、大きな立体地図に埋め込まれたライトの点滅で、各軍隊が日に日にドイツ軍を追い詰める様子を、約20分で理解する戦略解説コーナーがある。そして、眼下に広がる風景と当時の写真を比べるパノラマ展望コーナーへ誘導される。その他、兵士の生活や、激戦を物語る日常オブジェの展示や、短編のドキュメント映像も鑑賞できる。特筆するのは、この地で生まれたガイドの方から、お年寄や家族から聞いた当時のエピソードがたくさん聞ける点だ。

 

   また、この博物館はノルマンディー地方オルヌ県が運営しており、毎年現代アート展を同時開催している。2018年は92日まで、報道写真家エマニュエル・オルティズの高さ2メートルのウッド・プリントが14点、野外で展示されている。1991年から1999年に撮影された旧ユーゴスラビア紛争で撮影された写真から《戦場の女たち》をテーマにした部分を、紙ではなく、約2メートルx幅70センチ、厚さ3センチほどのオーク材に焼き付けた作品のインスタレーションで、左右対象に7枚ずつ、なだらかな弧を描いて立っている。中に入って内側の写真を鑑賞すれば、焼き付けられた女たちの叫び、悔しさ、悲しみ、安らぎ、希望などが、ぐさりと心に刺さる、生々しい感動を与えてくれる。

 

モントルメル記念館 

Memorial de Montormel 

 

住所 Les Hayettes, 61160 Mont-Ormel 

   パリから約3時間、アルジャンタンArgentan駅から約20キロ

開館 58月   9:3018:00

94月 10:0017:00

休み 113月の月、火、木、金曜

http://www.memorial-montormel.org/

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《将軍マチェク》というニックネームが付けられたポーランド軍が使った戦車、シャーマンM4A1

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フランスの第二機甲師団が使っていた偵察用防弾車M8グレイハウンド

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高地262、防御陣地跡にできたモントルメル記念館

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大きな立体地図に埋め込まれたライトの点滅で、各軍隊が日に日にドイツ軍を追い詰める様子を、約20分で理解する戦略解説コーナー

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すさまじい砲弾の跡が痛々しいドイツ兵のヘルメット

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2018年は9月2日まで、報道写真家エマニュエル・オルティズ展開催中

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