魂の叫びが聞こえるセンセーショナルな二人の具象画 ! ルイ・ヴィトン財団では、早逝の天才 、 バスキア& エゴン・シーレ展を同時開催中 !

         フォンダシオン(財団)・ルイ・ヴィトンは、LVMHグループのメセナ活動の一部として2014年オープンした現代的アートの美術館。パリ郊外にあるブローニュの森に、弧を描がくガラスの屋根が重なる、巨大だが軽やかな建築物は、フランク・ゲイリーが担当した。開館以来、グループ最高責任者のベルナール・アルノー氏の現代アート・コレクションを含む、20および21世紀のアートを展示する企画展をヒットさせ、2017年には、パリと近郊にあるモニュメントの入場者ランキングで、ベスト10に入る快挙を果たしている。

この10月からは、クリムトらの世紀末芸術に影響されつつ、20世紀初めのウィーンで独自の画風を確立したエゴン・シーレ展と、1980年代にニューヨークで活躍し、先のオークションではアメリカ人の芸術作品の最高額を記録、現代アート史上、一つの時代を象徴するストリートアーティスト、ジャン・ミッシェル・バスキア展の同時開催が始まった。

$$$$$$$$$     ジャン-ミッシェル・バスキア 1960  –  1988

ベルナール・アルノー氏が所蔵する『ジョニーポンプの中の少年と犬(1982)』などを含むジャン-ミッシェル・バスキア展は、4フロアーを使い、初めて展示される大作なども含めた120点を鑑賞できる。

史上初、一堂に展示された『HEADS 』3作から始まるバスキア展は、まるで試合が始まった途端、ストレート・パンチを喰らったボクサーになった気分だ。約2m四方のキャンバスに、鮮やかな色に何度も重ねられたスプレーで一つ、ドクロが描いてある、現代のヴァニタスとも言えるシリーズ。ヴァニタスは、平家物語の《祇園精舎の鐘の声・・・》の如く、生の儚さ、虚しさを具象化した頭蓋骨が登場する中世時代の絵画だが、バスキアの頭蓋骨は、口を開け、意見を叫んでいるブラック(黒人)。自画像というタイトルがついていても不思議ではない。1982年の 『Untitled(無題)』、青いバックに黒い頭蓋骨の作品は、衣料品販売のZOZOTWON創業者でアートコレクターとして著名な前澤有作氏が2017年、ニューヨークのオークションで123億円で落札し、アメリカ人アーティストの作品として最高額を記録した。氏の写真と共にニュースは世界中を駆け回り、この時『この作品が僕に喜びを与えたのと同じように、人々にも喜びをもたらしてほしい。また21歳のバスキアが手がけたこの傑作が、若い世代をインスパイアしてくれたら』とメディアに答えている。確かに、作品を真近に見ると、見るものを叱咤しているような迫力があり、圧倒される。

 

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7歳の時、車にひかれて1ヶ月間入院した。この時母がプレゼントした『グレイの解剖学』は、イラストで自分の怪我を理解するだけでなく、この本から得た知識と視覚情報が、確実にバスキアのインスピレーションの源となったと言える。      その後、両親が離婚し、二人の姉妹と共に父親の生活が始まる。父親の仕事上、1974年からはスペイン文化溢れるプエルト・リコのサン・ファンへ引越し、約2年間、プロテスタント系の学校に通った。11歳の頃には英語のほかスペイン語、フランス語を話せるようになっていた。

ブリックリンに戻って来たバスキアはハイスクールの同級生、ストリートアートの先駆者とも入れるアル・ディアズと出会い、一緒にメッセージ・グラフィティーを『SAMO©』という名前で残すようになった。17歳のバスキアと19歳のディアズは、謎めいたメッセージを残すようになり、巷で話題になる。1978年には、100ドルの支払いを条件にヴィレッジ・ヴォイス誌のジャーナリストのインタビュー応じて、コンセプトなどを語っている。1978年、卒業と同時に父の元を去り、アーティストの知人宅を転々とする居候時代が始まる。1979年、ソーホー地区の壁に『SAMO©は死んだ』と書き残し、デュオ解散。街角でポストカードや手描きのTシャツなどを売り、生活費を得ていたバスキアは、ノイズ・パンクミュージックのバンド活動もした。この頃、キース・ヘリングと出逢い、長期に渡って親交を深めた。

1980年に初めてタイムス・スクエア・ショー(現代アート展)に参加、1981年には、クイーンズ地区ロング・アイランドにあるMoMA PS1(当時P.S.1 Contemporary Art Center)の《New York/New Wave》展に参加する。これらのキュレーターは先見の目を持ったディエゴ・コルテスだった。二人が出会ったのは、バスキアのパーソナリティーをフューチャーした映画『Downtown 81(2000年リリース時にNew York Beat Movie  と改名)』を制作したグレン・オブライエン、一時期バスキアのガールフレンドだったマドンナも出入りしていたナイトクラブ、Mudd Club。ディエゴは初め、バスキアがSAMO©の一人とは知らずにいたが、親交を深めるうち、その才能を理解する。そして、その日暮らしのバスキア に彼の芸術がアンディー・ウォーホルに匹敵するものだと賞賛し、芸術活動を続けるよう説得したのだった。《New York/New Wave》展は、キース・ヘリングなどを含めた80年代全て、つまり音楽、パフォーマンス、立体、平面作品で溢れ、大成功。当時のマーク・H・ミラーによるインタビューヴィデオでは、ディエゴ・コルテスがこんな風に答えている。

ミラー氏の “このアーティストたちの将来は如何でしょう?彼らは、プロフェッショナルになっていくと思いますか?” という問いに対し、腕組みのまま、少し沈黙して・・・“そうですね・・・今のところ、皆をプロフェッショナルとは言いません・・・というか・・・プロフェッショナルという言葉に、肝心を持ってない・・・プロフェッショナルって、何ですか?”  ・・・・ と、 質問を返している。

 

バスキアは時代の寵児となり、有名コレクターに作品を購入され、ニューヨークで指折りのギャラリーと契約、マンハッタンのアッパー・ウェストサイドにあるギャラリーの地下をアトリエ兼住居として与えられ、各国の現代アート展に次々に参加。60年代からスターだったアンディー・ウォーホルのアトリエ、”ファクトリー”にも足を踏み入れ、1983年、バスキアは憧れのウォーホルとのコラボレーションも発表。スイスのバーゼルにあるバイエラー財団美術館で開催された《ピカソ以後の表現主義》展では、ピカソの作品とバスキアの作品が並べて展示された。

《ポップアートの巨匠》ウォーホルとのコラボレーションは1985年まで続き、同年2月10日、ニューヨーク・タイムズ・マガジンは《ニュー・アート・ニュー・マネー》のタイトルで新しいアートと市場を特集し、バスキアのポートレートを表紙にフューチャーした。

だが、ヘロイン中毒になっていたバスキアの栄光は長くは続かず、1987年2月22日にウォーホルが死去すると、さらに孤立。薬物依存症を治療のためハワイに滞在したがその数ヶ月後、マンハッタンのグレート・ジョーンズ・ストリートにあるロフトで、27歳の短すぎる生涯をオーバードーズで幕を下ろした。

=======ルイ・ヴィトン財団の展示は、彼が使ったピクトリアルなエレメントやメッセージ性を15に分類してあり、先に挙げた”モダン・ヴァニタス”から始まり、日常が描かれた作品、ジャズ・ミュージシャンやアフリカのリズムが聞こえるような作品、白人の社会的プレッシャーに抵抗するメッセージを込めた作品、黒人差別と戦ったモハメッド・アリほか自分のヒーローを登場させた作品など・・・80年代のニューヨークがオーバーラップするような展示となっている。どれも、 バスキア の『言葉はいらない ! 見て、楽しんでくれ ! 』という、叫び声が聞こえそうだ。そして、回顧展の締めくくりは、パリで初めて発表される作品、ドンキホーテを彷彿させる《死と乗馬》・・・死を予感したかのような生前最後の一枚だ。

 

***********  エゴン・シーレ 1890 –  1918

没後百年に当たる今年、パリでは約25年ぶりのシーレ展では、ほとんどが個人蔵の約100作品が展示されている。同時開催のバスキア は1960年に生まれ27歳で生涯を終え、シーレの方は1890年生まれで、没年28歳。二人とも活動年数が少ないにもかかわらず、芸術界に与えた影響はかなり大きい。

シーレは、若くしてウィーン芸術学校に進学する。当然のようにアールヌーボーの流れを組むオーストリアとドイツで発展した芸術ムーブメント、ユーゲントスティルの影響をは大いに受けた。17歳の時、アカデミズムに反した新しい総合芸術の追求を目的にウィーン分離派を作ったスター画家、ギュスターブ・クリムトと出逢う。バックに金や奥行きのないパターンを、大胆に組み合わせたクリムトのスタイルと比べると、シーレの絵は試行錯誤を繰り返しているようだ。だが、エロス、怯え、人間の性、戦争の恐怖、日常の苦悩が拡散する精神状態が、自画像、複数の裸体、見開いた瞳が放つ視線に宿る、彼にしか描けなかった表現がある。彼の絵は、生々しい声や匂いがするような強烈な個性を放っている。

今回の展示は、年代毎それぞれのテーマに沿って展示されている。1908 から1909年は《縁取るライン》で、ユーゲントスティルの影響濃い時代。1909年に、ゴッホやムンク、マチスやゴーギャンの作品に出会い、彼はウィーンの芸術アカデミーのメンバーになっていたが馴染まず、ノイクンストグルッペ(新たなる芸術の集い)を結成している。そして、1910から1911年の《表現主義のライン》では、独自の自己表現が見られる作品。1912 から1914年《均衡の模索》部分では、ウィーンから離れ、クリムトのモデルをしていたウォーリーとともに、チェコ南ボヘミア州にあるクルマウ(1920年以降はクルムロフ)に引っ越した頃の作品。どこか、ギクシャクした構図が、彼の精神状態を語るようだ。1912年に、彼のアトリエに出入りする未成年の少女の淫らな姿を描いた作品が見つかり、わいせつな作品を発表した罪で、24日間留置された。ヌード、しかも未成年の淫らな姿を描く芸術家への風当たりは強く、彼はウィーンに戻ってくる。

周りを白い絵の具で縁取りをした絵、不自然なポーズの絵、奇妙に手足が長い体の絵、手や足の先が描かれていない絵、体や頭がキャンバスに収まってない絵・・・そして、性器をあらわにした女の絵・・・。見る者に投げかけられる視線、捻れた体は『生』を開けらさまにし、その裏側の『死』の気配まで伝えているようだ。

展示は1915 から1918年の作品、《再築されたライン》で締めくくられている。1915年に中級階級の家庭に育ったエーディトと結婚するが、その三日後に第一次世界大戦が勃発してしまう。従軍するが、前線には行かずにすんだが、反戦争、そして芸術を軽視する時代への突入に、「血なまぐさい戦争によって、多くの人が、芸術は裕福層の贅沢物の一つと考えるようになってしまった」と、嘆いた(義理の兄弟に当てて手紙より)。1918年、大きな展示会に次々に参加し成功を得るが、恐れていた死が近ずいてきていた。10月28日、エーディトはシーレの子を身ごもったまま、スペイン風邪で命を落とし、数日後の31日、病魔はシーレの命をも奪い取っていった。

===== 興味深いこのダブル展示会は、2019年1月14日まで。詳細は公式サイトで。会場で音声ガイドとして使えるアプリケーションのダウロードも可能。

https://www.fondationlouisvuitton.fr